水沼貴史「監督業には覚悟が必要」現在は解説者として活躍中

監督業には覚悟が必要

 

あなたは過去の実績が認められ管理職になった

自分の上司はカリスマで数々の業績をあげている

そんな人物の下で若手を伸ばそうとしていたとき あなたは社長に呼び出された

社長はカリスマ上司が辞めると明かした

そしてあなたに部門全体を指揮しろと言う

次のビジネスチャンスまで時間がない 部署に戻ると部下は不安そうにあなたを見る

そんな経験をしたのが水沼貴史だ

コーチから監督になり、またコーチに戻るまで 水沼はどんな思いを抱いていたのか

そして今の「やりたいこと」は何か

水沼貴史(みずぬま たかし)
1960年5月28日埼玉県生まれ。 浦和南高校から法政大学に進学し、1979年、日本で開催されたワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)では日本で唯一のゴールを挙げた。1983年に日産自動車へ入団。1984年からは日本代表としても活躍して、1995年に現役引退。引退後は解説者として多数のテレビ番組に出演。指導者としても法政大学コーチ、横浜F・マリノスの監督、コーチなどを歴任した。

水沼貴史が半年間の監督生活を振り返る

僕の監督時代は短いんですよ。横浜F・マリノスで半年間、2006年に初めてJリーグのチームのコーチになったんですけど、その年の途中に監督になって、シーズンの終わりまでですから。自分の前は岡田武史監督ですね。岡田監督は2003年に就任してその年と翌年優勝して、2005年は9位でした。

僕は2005年に、Jリーグの監督を務めるのに必要なS級ライセンスを取りました。もともと取る気はなかったし現場に行く気もなかったんですけど。でも、現役を辞めてからテレビで試合の解説などの仕事をしてちょうど10年経ったときに、それまでである程度、キャリアを引退した後に何ができるかっていう道を作れたと思ったんですよ。

 

サッカーを知らない人たちに、Jリーグや選手とは何かを知ってもらう。それをメディアでどう伝えるかって、いろんなことをやってみましたが、10年で一区切りがついたかなと思ったんですね。そのとき、このままテレビの仕事を続けようという気持ち以外に、現場に戻ろうか、という考えの変化が自分の中で出てきたんです......。

 

現場に戻るなら、S級ライセンスは取りに行かなきゃいけない。それでテレビの仕事をしながら2004年から研修に行って、2005年に取れたんです。研修では国内と海外のクラブに行くんですが、国内はマリノス、海外は「バルセロナ」でした。

バルセロナで研修したエピソード

バルセロナは、知り合い経由で話をしてもらったんです。そうしたら受け入れてくれるということにはなったんですが、もちろん自分は相手からしたら全然知らない人間。だから、ロッカールームとか本当の中までは入れないんです。コーチとして入るのではないから見学みたいな感じですけどね。でも、トップ以外はピッチに入って見ていいって言われて。

 

そのころはホームスタジアムの「カンプ・ノウ」の隣に練習グラウンドがあって、そこでカンテラからトップまでトレーニングしていました。その練習をピッチレベルで見られたのはラッキーでしたね。多分今は難しいんじゃないですかね。練習場も変わったみたいだし。 研修は約2週間。毎朝練習場に行ってトップの練習を見て、午後になるとその練習場に小さい子から順番に来るんです。

 

当時はライカールト監督で、ロナウジーニョとかエトオとかデコとかプジョルがいましたね。イニエスタやシャビがまだ若くて、メッシは子どもでした。 メッシはからかわれている感じでした。ボール回しのときにメッシが中に入ってやられていたりとか、みんなでワーワーキャーキャーやっているところを間近で見てましたね。スゲェなぁって思いながら。

水沼貴史がバルセロナで感じた「いい選手」

そのときのバルサにもいろんな選手がいたんですけど、僕が1番「こういう選手がいい」と思ってたのは「ジュリ」です。うまい選手は見ていれば「うまい」ってわかるんです。でもジュリって他の選手と比べるとそんなにうまくない。ただフランスから来てバルサに入ったという事は、やっぱり何かを持っている。

 

ジュリの何が凄かったかと言うと「フリーになる」ところなんですよ簡単にフリーになって味方選手からのパスを受ける人がいるから、ポジショニングに「深み」とか「幅」ができるんです。そうするとバルサの選手たちのテクニックがいきてくる。それを見たかったんですよ。

 

ポゼッションは当然なんだけど、そのために何が必要かと言うと、いいポジショニングとか、スペースを作る、あるいは使うという部分なんです。それが出来ていれば、選手が先天的に持っているアイデアがいきてくる。

あとはコンビネーションが大事で、そういう阿吽(あうん)の呼吸にはトレーニングで培われる部分と感性が相まみえる部分があるんです。その相まみえる部分に脇役的な、ジュリみたいなプレーヤーがいると、深みと幅とかができるのを見たかったんですよね。だから、あのときのバルサに行けたのは本当に良かったですね。

 

S級ライセンスを取得した話を聞かせてくれた

S級ライセンスを取得

2005年にライセンスがおりました。当時は月曜から金曜までがS級ライセンスの研修で、土日が「スーパーサッカー」や解説の仕事、みたいな生活でしたね。S級を取るためにはどこかのチームを指導してないとダメだから、自分の出身である法政大学に教えに行ってました。

今もそうだけど、S級ライセンスを取るのは結構しんどいです。でも、そうやってライセンスを取るというのは、単に指導者になるためだけじゃなくて、人としての自分の幅とか深みとか、そういうのがサッカーを通じてできるかなぁって思いますね。

 

ライセンスを持っているからってすぐに「監督をしないか?」ってどこかから声がかかるかというと、僕にはそれまでの実績がないからなかなか来ないんですよ。法政を見ているといっても、2年ぐらいだったし。自分でも当然難しいだろうとは思ってました。

それから、やっぱり自分はマリノスに縁があったから、現場に戻るならマリノスからと思っていたし、マリノスに入ったとしたら長くいたいと思ってた。ある程度自分の中での計画は立てながら、声がかかったときに入ろうって。 そうしたら2006年に声をかけてもらったんです。ただ、当時のマリノスは中心選手も次第に年齢が上がってきていて、すごく難しいときだったと思います。それはわかっていました。

まずは若手を見たいと思った

でも、いい若手がいたんですよ。だから、まず若手を見たいと思ったんです。上にはチャンピオンになっている選手がいて、経験もあるし、自信も持っている。そこから代がわりというか、マリノスの強さを継承していくためには、若い選手が出て来なければいけない。まずはそんな若手を自分に見させてほしかった。

マリノスユースの指導者になるというのも「あり」だったんですけど、プロの若い選手に言えることがあるんじゃないかと思って。「サッカーで上に行きたい」と思っている選手に、上に行ければいいだけじゃなくて、考え方とかプロとしての自立みたいなところを自分の経験を踏まえて話してあげたいと。

 

マリノスの環境は凄いけど、そこに満足しちゃダメだし、その環境からもっと上のステージに行くんだとか、プロってどういう心構えでないといけないのかとか、たぶん若手がわかっていない厳しさとかを伝えたくて。 自分の現役のころとは時代が違うんですけど、やっぱり若い時に上の選手たちを追い抜くのを目標にするとか、そういう心構えでいないと上に行けないんですよ。代がわりのときにスムーズに入れ替わっていかない。それをすごく言いたかったから、若手と一緒にやってみたかった。

 

トップチームにはほとんど帯同せず、試合日もトップから漏れた「居残り」の選手たちのトレーニングを見てからスタジアムに行っていました。岡田さんは僕が指導の現場でそんなに長いキャリアを持っていないのを知っているから、「何をやるんだろう」と思って見ていたと思います。

 

岡田監督に代わり監督に

マリノス 岡田監督の退任

そのうちに、チームがだんだんうまくいかない感じになってきた。岡田さんのやろうとしてることがうまく伝わらなくて。最終的には岡田さんが8月のホーム大宮戦を最後に辞めるんです。12位に低迷してたし、まずい雰囲気だというのは感じてました。

それで1-2で大宮の試合が終わって、クラブハウスに帰ってみんなシャワーを浴びてたときに、岡田さんが社長から呼ばれたのは何となくわかって。 しばらくして僕が風呂に入っていると岡田さんが風呂場に来て「辞めることになった」って言ったんです。聞かされて「うわー辞めるのかー」って。ショックでしたね。

 

じゃあ次はどうなるのかって考えて風呂から出たら、今度は僕が社長に呼ばれて。 で、「岡田さんが辞めることになった」という話を聞いて、それから「やってもらえるか?」って。まさか次の監督が自分だとは全然思ってなかったですよ。でも言われたのが8月23日で、27日にはもう次の試合があったんです。 だから「ノー」って言えないですよね。次の監督が決まるまでなるべく間隔をあけないようにしないと選手たちが戸惑うから。

 

だから「はい、わかりました」ってその場で返事をして。そのときの肩書は「監督代行」で、しばらくして正式に監督になったと思うんですけど、いつ「代行」が取れたか自分でも覚えてないです。

水沼貴史が当時を振り返る

監督をやりたかったかと言えば、正直まだやりたくなかったですよ。若い選手をちゃんと3年ぐらい指導して、自分の中でも自信をつけながら、次のステップに行こうと思ってたんで、そこからすると早すぎたんです。チームに来て半年ですからね。

ただね、そこから何カ月かして気付いたんですよ。監督に就任したんだけど、コーチ時代と待遇とか年俸は変わってなかったんです。それは社長に突っ込みました。「おかしくないですか?」って(笑)。

 

僕が監督になったとき、選手は「この監督で勝てるのか?」って思ったんじゃないですかね。だって中心がマツ(松田直樹・故人)とかで、久保竜彦、奥大介(故人)、上野良治とか、そういう個性的な面々がいるわけです。

他には河合竜二が台頭してきてて。坂田大輔、山瀬功治もいて。山瀬はその年ずっとヘルニアでかわいそうな時を過ごしてました。それから中西永輔、中澤祐二、那須大亮、ハーフナー・マイク、栗原勇蔵、田中隼磨とか、いい選手が多くて「スタメンをどうするんだ?」っていうぐらいの選手は揃ってましたから。

最初の相手は同級生で元チームメイト

監督になって最初の試合の相手は京都で、監督は同級生で元チームメイトのハシラ(柱谷幸一)でした。なんか縁ってあるんですね。中3日だからトレーニングではチームにそんなに変化を与えられないので「選手の考え方をちょっと変える」ことをやりましたね。

ミーティングで「選手一人ひとりの最大値を出してほしい」って言ったあとに、全選手の名前を呼んで、「君はこういうところがすごいんだから、これをやってくれ」って。僕なりに考えたことを「それをやってくれればいい」って伝えたんです。選手たちに「思いっきり自分を出していいよ」って言ったんですよ。

たとえば久保には「ダイナミックさとか、アクロバティックじゃないけど、ビックリするようなプレーをやって」と言ったんですよ。そうしたら試合中にオーバーヘッドして。それから、近くにわかり合える選手をおきたいと思って、久保をトップにして奥をトップ下にしたんです。そういうことをやって4-0で勝って、その試合は成功したということがあったんです。 

次の相手は大学の先輩

1か月後ぐらいにアウェイの福岡戦があって、相手の監督は川勝良一さんで、大学の先輩、後輩の関係なんです。これもまた縁がある気がしました。その試合では、久保が相手に頭突きして退場になったんですよ。1人少ない状況になったので誰かをトップに入れなきゃいけない。そこで奥を下げて坂田を入れたんです。「ワントップになるから行けるところは自分で行って、カウンターを狙ってくれ」って指示して。

 

そうしたらボールを受けて2人ぐらいかわして、すごいシュートを逆サイドのポストに当てて決めたんです。それで3-1で勝ったんですけど、坂田の良さが出たのと、あとは坂田の中で「自分がやらなきゃいけない」ってメラッっと燃えた部分が出たんですよね。坂田と最近一緒に食事をしたんですけど、僕がその試合のことを話したら、アイツもすごく覚えてました。

 

戦術について語る水沼貴史さん

水沼貴史 最後の試合

チームを引き継いだ後、最初は岡田さんのシステムを継承して3バックの3-5-2をやったんですけど、途中で4バックに変えたんです。選手の「個」が強いから3バックが出来てたんですけど、あるとき「見ている人は楽しくないんじゃないか」と思って。 決定的に「これは3バックをやめたほうがいい」と思ったのは、ビッグアーチでやった広島とのアウェイの試合で、結果は0-3でした。

 

試合後にその試合を映したスカウティングのビデオを1人で見たんですけど、スピードが感じられないんです。飛行機が近くを飛んでいるとすごく早く感じるじゃないですか。でも遠くを飛んでいるとすごく遅く感じますよね。ビッグアーチはトラックがあって観客席から遠いから、すごくスピードがないとゆっくりした、面白くないサッカーに見えたんです。

 

日産スタジアムだと遠いところもあるけど近い部分もあってそこまで感じてなかったんですけど、このビッグアーチの経験で、これは変えたほうがいいと。 それで4バックにしてコンパクトにして、どんどんハイプレッシャーをかけて、早く攻める形にしたんです。

最終節は、「イビチャ・オシム」監督の息子の「アマル・オシム」監督が率いていたジェフとの試合で、すごくいいサッカーができて2-0で勝ったんです。それが僕が指揮を執った最後の試合です。最後に何かその年を完結出来た気はしました。やっぱりこれだって。監督と選手はドライな関係じゃないといけないと思うけど、若い選手たちにアプローチしてたことが伝わってた気がして、すごくうれしかったですね。

 

当時若手だった選手が今、あのときにやってた練習や雰囲気がよかったみたいなことを言ってくれて、短時間だったけど、自分の中では間違ってなかったのかなって。 結局、僕の成績は7勝1分7敗のイーブンだったんです。前年と同じ9位でした。とりあえず責任は果たした気がします。勝ち越せれば良かったけど、さすがにそこまでは出来なかったですね。

延長オファーを断った理由

監督としての延長オファーもあったんですけどね。でも自分としてはいろいろな理由があって断ったんです。その一つは、コーチに戻ってもう一回若い選手を見させてほしいから。思ってもいなかったところから監督になったんですけど、それなりに成績を残したから、翌年も監督をやったら次は自分のやりたい形でチームを作れる、ゼロからもう一回スタートできる。そういう部分で、延長オファーの魅力はありました。

 

でも、僕が現場に入った最初の理由は、マリノスの過渡期に若い選手たちを育ててスムーズに移行させるためだったし。3年ぐらい若手をちゃんと見て、そこからチャンスがあったら監督になりたい、という思いがあって。だからもう一回コーチに戻って、そこから自分なりに選手たちと付き合いながら成長していきたいって、そんな考えでいたんです。

 

ただ、2007年は2006年よりも難しかったですね。いろんな選手がチームを離れて、作り直しでしたから。練習場も戸塚から「みなとみらい」に移って、社長も代わって。 早野さんが監督になって「高橋真一郎」さんがコーチに入って、僕は若い選手を見るというイメージだったんですけど、ちょっと難しかったな……。

結局、その年の監督とコーチ陣は1年で終わりでしたから。さすがに「なんでだ?」って、不思議に思ってました。よくわからなかったですね。

 

乾貴士について話してくれました

乾貴士の感性

その年でよく覚えてるのは乾貴士ですね。練習終わってもよく話をしていました。乾はシュートもうまいしドリブルはあるし、ファーストタッチがうまいんです。けど、自分だけの感覚でプレーすることがあって、ボールロストすることが結構あったんですよ。

それを直したほうがいいか、乾の感性を生かしたほうがいいか。直しすぎると選手の特長を消しちゃうのでよくないんです。でもボールを失うというのはチームとしてデカいミスなんですよ。悩んだんですけど、もう少し精度を上げたほうがいいと思って、乾とはパスの練習を何回かやったんです。

 

その後の乾にいきたかどうかわからないですけど、感覚的な部分と精度を求める部分の折り合いをつけるというか、そういうのは僕にも乾にも勉強になったと思います。

いろんな選手をどう育てるかという練習はいっぱいやりましたね。小宮山尊信とはクロスの練習を繰り返したし、天野貴史とか田中裕介とか長谷川アーリアジャスールとかとずっと練習していました。

 

あるとき、トップに入っていない若い選手たち中心で香港に遠征したことがあって、そのとき僕が監督で行くということになったんです。乾を連れて行きたいと思ったんですけど、早野監督はトップで使いたいということで連れて行けなかったんですよね。

香港って結構熱いんですよ。応援とかね。あの遠征、一緒に行った選手たちはすごく覚えているようなので、乾にも経験させたかったですね……。

一番大切なのは「鈍感力」?

監督をもう一回やりたいという気持ちは当然あるし、それを持っていないとサッカーに対する熱はなくなってしまうと思います。ただ、監督ってキツいですよ。半年でも思いました。みんなすごいなって。

監督って、堂々としている部分がなきゃダメだし、何を言われても自分を律して、はねのけられる精神的な強さもいると思います。そして一番大切なのは「鈍感力」かなと思うんですよね。

なんだかんだ言われて、それを全部受け入れてしまっては、たぶんやっていけないですよ。だから監督をやってる人はすごいと本当に思います。

デリケートな人、センシティブな人は難しいと思うし、考え過ぎちゃったらとことん深みにはまると思うし。 S級ライセンスを取ったときの同期だった「ポイチ(森保一 日本代表監督)」は、「感じてるんだけど感じない」という能力を持ってると思うんです。

 

そうじゃないと代表監督は絶対無理ですよ。 岡田さんも今はワールドカップに初めて出た1998年ごろの話を普通にしているけど、あのときなんか、自宅にパトカーが24時間警備で付いていたんですからね。もし自分の家がそんなになったらと思うとゾッとしますよ。

監督という職業は魅力的ではあると思うけれど、覚悟が必要だと思いますね。自分だけじゃない、自分の家族も、選手も選手の家族も、チームに関わってるスタッフ、サポーターも、たくさんの人を自分の一つの采配で変えてしまうことになる。いいこともあれば悪いこともある。それをすべて覚悟してやる職業なんだと。

監督と選手との関係

それから、選手との「線」の引き方も考えなきゃいけないですからね。クラブもいろんな形が出てきて、どんどんJリーグは変わっていってると思いますし、時代も変わって、選手が自分をどう分析するかとか、インターネットでいろんなデータが見られるし人の意見も聞けるし。

今は選手以外の人が強くなったとも思います。選手を囲んでいる人たち。どのクラブもその影響力は相当大きい気がします。そしてクラブはそっちの人たちの声をすごく考えると思います。ステークホルダーって考え方は昔はあんまりなかったですからね。

 

だけど本当は、選手にとって大切なのって監督が指向しているサッカーや、勝つために必要なことをどれだけ遂行できるかってことなんですよ。そのためには監督と選手はちゃんとコミュニケーションとらなきゃダメだし、そういう人と人とのつながりの部分って昔から変わらないと思います。

だから僕はずっと話をしていきたいと思うし、選手たちにはしっかりコミュニケーションをとれる人であってほしい。何でも「ノー、話が違う」というのではなくて、話をしてみるとか、そういうのが必要だと思います。

 

水沼貴史さんのやりたいこと

 水沼貴史の「やりたいこと」

今やりたいことは、サッカーの環境をもっとよくしたいということですね。環境というのは選手たちの待遇面もそうだし、サッカーの質、日本代表の質を上げるということもです。もっと進化させていく、変えていくためにメディアは大事だと思います。

もっとサポーターの人たち、サッカーに関心がある人たちを増やしていかなければならないと思うし、そのためにはプレーを伝える側がどうメッセージを発信できるかというのが大事になってくると思うんです。

僕は今、そういう役割にいます。最初に10年メディアの仕事をやって、そこから現場をやって、またメディアの世界に戻ってきたというので、どうやればいいのかすごく考えてるんです。しかも、テレビだけじゃなくてネットでサッカーを見るとか、観戦の方法も変わってきているから。

 

今、僕は自分個人じゃないんですよね。クサいんですけど、自分が「何かになりたい」とか「何かをしたい」じゃなくて、今の日本のサッカーの状況をもっとよくするために自分は何ができるかを考えて、それをやることが自分のやりたいことになってるのかなって。

もう来年60歳なんで、普通だったら定年で再雇用されるという年齢になっています。そう考えると、今の立場は定年を自分で決められるし、永年勤続で仕事ができるという立場なので、そこは幸せなんですけど。

でも、視聴者の人たちに飽きられないように自分で進化しながらやらなければいけないと思うし、メディアの変化に対応しなければならないと思うし。そのために今は努力を続けています。

やりたいことを実現するためには健康が必須

「自分がやりたいこと」を実現するためにやっていることは「健康」の維持です。食事も大切ですけど、一番は体重管理です。体重の管理はずっと続けている簡単な健康法です。 まず体重計を買う。そして毎日乗る。太ったから乗る、太ったから知りたくない、じゃない。毎日乗る。出来れば同じ時間、食事前、お風呂入る前、とか。体重計は出しておく。隠さない。片付けない。

 

体重の変化があれば、そこには原因があると思うので、それが食べ過ぎたか、飲み過ぎたか、それを自分で考える。今日は太っていたんだけど、そんなに食べていないと思ったら、前の日とか、その前の1週間を振り返る。

そういう変化を自分で知ると、今日は何をしなければいけない、何を控えなければいけないかがわかってくるんです。そうすると体重が安定してくる。そして急に体重が減ったりしたら、どこかおかしいって自分でわかるんですよ。そういう何かしらの変化に気付くことができるかというのが一番大事だと思うんです。

 

だから僕は知り合いが結婚したとき、2組ぐらいに体重計を贈りました。旦那さんと奥さんと両方乗れって。お互いを大好きな気持ちを何十年もキープするには、まず体重をキープすることが第一だって。

奥さんは旦那さんがご飯をたくさん食べてくれるとうれしいだろうけど、太ってしまったらイヤじゃないですか。そんなときは旦那さんが運動して体重キープするとか。そういうのがいいんじゃないかなって。 毎日体重を量るっていうのは、すごく効果的だと思います。ぜひやってみてくださいね。

 

水沼貴史さんありがとうございました。

(撮影:浦正弘)

 

 

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